市では、日本の近代化をけん引し不平等条約の改正に挑んだ外務卿・寺島宗則の旧家保存活用プロジェクトをおこないます。
鹿児島県阿久根市出身の松木弘安(寺島宗則)は、父の松木宗保(薩摩藩侍医、シーボルトの門下生)と長崎に赴き蘭学などを学びました。
島津斉彬の侍医でもあり、集成館事業に従事して日本の近代化の礎を築きました。五代友厚と薩英戦争を経験したのち、薩摩藩英国留学生を率いて渡英しました。電気通信の父と呼ばれ国内外の電信政策を推進し、長崎~上海、長崎~ウラジオストク間に国際電信を開通させました。
国政においても、外務卿、文部卿、元老院議長などを歴任し、日本外交の近代化と条約改正に尽力しました。
1832年 鹿児島県阿久根市脇本に生まれる。
1839年(7歳) 養父の松木宗保(雲徳)と長崎へ。蘭学を学ぶ。
1846年(14歳) 江戸にて戸塚静海から医学を、川本幸民から蘭学を修める。
1857年(25歳) 薩摩藩主島津斉彬の命により、集成館事業に従事し、写真・ガス灯・電信などの研究や試作に携わる。
1861年(29歳) 福沢諭吉らと幕府第一回遣欧使節団に翻訳方兼医師として参加し、病院、学校、電信局を見学。
1865年(33歳) 薩摩藩英国留学生を率いて渡英。
1866年(34歳) ロンドン発。阿久根に帰着。寺島陶蔵と改名。
1867年(35歳) 寺島宗則と改名。
1868年(36歳) 明治政府参与。東京・横浜間の電信開設の建議。初代神奈川県知事に就任。国営電信建設の一切を委任される。
1869年(37歳) 不平等条約の改定作業にあたる(外務大輔)。
1871年(39歳) 長崎~上海間、長崎~ウラジオストク間の海底電線通信が開通し、外国との電信業務が始まる。
1873年(41歳) 参議兼外務卿に就任。
1879年(47歳) 文部卿に就任。
1881年(49歳) 元老院議長に就任。
自然景観の美しい阿久根市脇本湾の海沿いに寺島宗則が幼少期を過ごした松木家の邸宅があります。邸宅は築後180年経過し老朽化が進んでいます。
幼少期から勉学に励み、日本の近代化をけん引した寺島宗則について、未来ある子どもたちへ語り継ぎ、薩摩スチューデントの中で唯一残る家屋を保存します。また、普及活動、来訪者が当時を追体験しながらゆっくり過ごせるような周辺環境整備やおもてなし活動をおこないます。