阿久根の歴史は古く、平安時代末期に英祢(あくね)院と称され、その院司に任命されていた英祢氏によって統治されてきました。16世紀以降は、島津氏の統治下で、貿易の拠点として栄えました。
阿久根には、当時の姿を今に残す、歴史的に価値の高い遺跡や文化が数多く残っています。
阿久根の歴史は古く、平安時代末期に英祢(あくね)院と称され、その院司に任命されていた英祢氏によって統治されてきました。16世紀以降は、島津氏の統治下で、貿易の拠点として栄えました。
阿久根には、当時の姿を今に残す、歴史的に価値の高い遺跡や文化が数多く残っています。
海運業で栄えた阿久根。その発展に大きく貢献したのが河南源兵衛です。
16世紀末、薩摩藩は明国と薩摩に服従していた琉球を足掛かりにして、中国と貿易を行い、当時、高値で取引をされていた「唐物」で利益を得ようとしていました。
そこで抜擢されたのが、藍会栄(のちの河南源兵衛)。藍会栄(らんかいえい)は、中国の明王朝の側近として仕える家柄の役人でしたが、16世紀末のころに満州から女真族(のちの清王朝)が侵攻してきて内乱状態となり、琉球へ亡命の身でした。
薩摩藩は、名国内部の事情に明るく、品物の目利きができ、中国語が堪能であった会栄を藩の士分として迎え、唐通詞(通訳)として取り立てました。
こうして、会栄は藩から名字帯刀が許され、故郷である中国の河南省から「河南」をとって姓とし、名を「源兵衛」と名乗ることになりました。これが初代「河南源兵衛」のはじまりといわれています。
初代源兵衛は、唐通詞として琉球―薩摩間を往来して藩政に大きく貢献しました。
そして、会栄が亡くなった後、士族としての河南家を長男が継ぎ、二男は海運関係の商人として代々の当主を源兵衛と襲名していくことにしました。
源兵衛は、代を重ねるごとにつれて海運業を広げていきました。4代目根栄(もとはな)までは琉球貿易が主でしたが、5代目根真(もとざね)以降は奄美大島の黒砂糖積み、6代目根綿(もとつら)の時が河南家の最も盛んな時でした。7代目根心(もとなか)の壮年時代には、源兵衛船と呼ばれていた23反帆船(今の約300トン級船)の持船を6、7隻運航させ、その雇用した船頭、水夫だけでも150名にのぼりました。さらに、船の修理や新造船のための船大工、鍛冶屋などが常時100名近く港で働いていたため、全部の雇人員の数は、250名を超えていたそうです。
おかげで阿久根の港は大いに発展し、元禄3年(1690年)には、山下にあった阿久根の城下である役所が、栄町の地区に移転してしまうほどでした。5代目根真が書き写した(原本は不明)とされる『領内より琉球までの図』には、種子島から多くの島々を経由して、琉球本島までつづく「海中の道」が描かれており、その先の台湾まで記されています。源兵衛や薩摩藩がいかに南海の琉球の島々などを通して、世界とつながっていたかがわかります。
千数百年の昔から、奈良の都人の間に西海の一大景勝地として広く知れ渡っていた「黒之瀬戸」。
"万葉集"の約四五百首の中に鹿児島県に関する歌二首があり、その二首で黒之瀬戸に関する歌があります。
第三巻
隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす
遠くも吾は今日見つかるかも(長田王)
第六巻
隼人の瀬戸の巌も鮎走る
吉野の滝になほしかずけり(大伴旅人)
このように、多くの文人ちが、黒之瀬戸をはじめとした阿久根の美しい風景を題材として作品を残しました。
阿久根市内には、江戸当時、名声天下に高かった史論家で儒者の頼山陽や与謝野鉄幹・晶子夫妻の作品を刻んだ石碑もあり、今尚、変わることのない阿久根の景勝地を後世に伝えます。
ハマジンチョウ(天然記念物)|昭和28年指定
波留潟地区に自生しています。常緑の熱帯植物で漏斗状の紫の花を11月から4月頃まで開花します。普通は種子島以南に生育し、潮風の吹く温かい海辺やその付近の淡水地に育ち、南洋方面では高さ3メートルに及ぶものもあります。天草(苓北町)、五島列島などにも自生していますが、阿久根のものは九州本島唯一の自生地として指定されています。
阿久根砲(考古資料)|昭和34年指定
昭和32年、小学5年生の坂元榮次君によって阿久根浜で発見された16世紀頃のポルトガル砲です。当時の船舶に積まれていたものが、何らかの事情で阿久根沖に投棄されたものと考えられており、阿久根の海外とのつながりを知る貴重な資料として郷
波留南方神社の神舞(無形民俗文化財)|昭和43年指定
波留地内の南方神社(諏訪神社)の8年毎の例祭に舞われるもので、出雲流の神楽の系統に類するものと言われ、露払(ちはり)に始まり、神降ろし(かんおろし)、瓶舞(びんめ)、弓舞(ゆんめ)、剣舞(つるんめ)、田ノ神舞(たのかんめ)、将軍舞(しょうぐんめ)、鬼神舞(きじんめ)からなります。由来は明らかではありませんが、現在鬼神舞に使用されている面は、宝暦年間(1751~1764年)に作られたことから、この頃には既に舞われていたと考えられています。近年は保存のため、毎年、仮奉納が行われていましたが、平成24年8月26日に17年ぶりに奉納されました。
脇本古墳群(糸割渕、史跡)|昭和50年指定
脇本上原にある古墳時代(6世紀頃)の組合せ箱式石棺2基からなる古墳群。墳丘等は確認することはできませんが、昭和44年の調査によって鉄剣・刀子・鉄鏃等が確認(郷土資料館に展示)されています。これらは、字名をとって糸割渕古墳群と言われています。近隣の新田ケ丘古墳群と合わせて脇本古墳群と呼ばれて、横穴式石室、地下式板石積み石室等、種類の違う墓制が隣接している等、鹿児島の古墳文化を知る貴重な遺跡です。
牛之浜海岸(名勝)|平成26年4月指定
東シナ海の荒波に洗われた奇岩奇礁の乱立する海岸で、海の向こうに甑島を望む景勝地です。江戸時代後期に、は史論家・儒者として知られる頼山陽が絶賛し、読んだ詩が牛ノ浜駅裏手にある頼山陽公園の石碑に刻まれています。風景もさることながら、海岸に露出する岩石は、水深数千mの海溝で堆積物が複雑に混じり合ったメランジ堆積物であり、その貴重な地層帯がみえます。
カスミサンショウウオ(天然記念物)|平成26年4月指定
カスミサンショウウオは、平野の周辺にある丘陵地などに生息しており、成体は、林地の倒木や落葉、石の下、浅い土壌中などに潜んでおり、主として夜間に行動します。繁殖期は1月下旬から4月上旬で、湿地、水田の溝、浅い池や沼などに産卵します。阿久根市に生息する本種は、分布の南限の地域個体群として重要な意味を持っており、学術的に貴重です。